Journey in America
by Akiko Kahren
アメリカでの生活を望んだ夫と子供たちといっしょに2004年に東京から引っ越してきました。
来るにあたって何度も話し合うのですが、私が最初に反対をしました。
仕事はあるのか。 言葉もわからないし、やっていけるのか心配でした。
今度は私がアメリカにいきましょうと言うと、彼が 「いや、やっぱり止めよう」 と言います。 いつまでたっても意見が合いませんでした。
接心に取り組むと 『そろそろアメリカでの生活のようです』 といただき、いままでの迷いはなくなり、つぎの日から準備が始まりました。
最初に始めたのは貯金でした。 あずかりの経親さんから 「こっちに来るなら、まずお金を貯めなさい」 と言われたからです。
けれど、今まであればあるだけ使っていた私には、どうやって貯金すればいいのかわかりません。
困っていたところ、私の両親が 「子供が2人もいて大変だろうから、うちに来なさい」 と言ってくれたのです。
両親はアメリカに行くことは知りませんでした。 すぐに引越して、そこから少しづつ貯金ができました。
私のグリーンカードも2ヶ月で取れました。すべてお力です。
アメリカ行きを私の両親に話すと、両親は反対しました。
自分の会社を継いでほしいと。 そして夫を説得するようにと言われてしまいました。
いままで金銭的な面で助けてもらっていたので、両親の期待に答えたいという気持ちとご霊言に添っていこうという気持ちで心はゆれました。
けれど親のそばにいるといつまでも甘えてしまうから 「これからは両親に安心してもらえるようにアメリカでがんばろう」 と決めました。
そのとき初めて父の涙を見ました。 「しょうがない」 とひとこと言って。
そして、 いよいよアメリカでの生活が始まります。 まず車の免許を取ることになりました。
何度受けてもパスしません。 日本でも運転をしていたのに取れません。
3度目もパスしなかったので、またペーパーテストを受けなければなりませんでした。
ペーパーテストはパスするのですが、ドライビングテストはパスしないのです。
そのつぎもダメ。 もう免許はいらない。 どこにも行けなくてもいい。
もう日本に帰りたいと思いました。 日本は車がなくても電車やバスでどこにでも行けるからです。
さすがにもういっしょには行けないと夫に言われたので、自分で予約して自分で運転して行きました。
これでまたパスしないと、またペーパーテストもやり直しです。 ものすごく緊張しました。 出産以来の緊張でした。
そして5度目にやっとパスをするのですが、うれしいよりも、ほんとにアメリカでやっていけるのか不安になりました。
東京では父の会社を手伝っていたので、そのときは 「週末も出て来い」 といわれると会社に出なければなりませんでした。
月に1回お寺に行けるか行けないかだったので、アメリカに来てからは 「これからは、もう少しお寺に行ける」 と思っていました。
しかし、夫の仕事が2ヶ月たっても3ヶ月たっても決まらないのです。
私の方が先に決まってしまい、子供といっしょにいるのが苦手な彼が子守りをして、働くことがが苦手な私が仕事をする。 まさかまさかのショックでした。
しかも初めてのウエイトレスの仕事。 ランチタイムとディナータイムの両方でした。
どうして私が朝から夜おそくまで働かなきゃいけないのか、私は何のためにアメリカにきたのか。
ホームシックと重なり悲しくて苦しくて、この気持ちをどこに持っていけばいいのか。
いつももんもんとしていました。
そんなとき双親さま・両童子さまのお写真のまえで、苦しいです、辛いですと話しかけると、「がんばりなさい、がんばるのですよ」 と声無きお声が聞こえてきました。
そして、あずかりの経親さんや経の人たちがあたたかく見守り励ましてくれました。
英語での失敗は数知れず。
"TO GO" を日本では 「テイクアウト」 と言います。 "TO GO" の意味がわからない私はおろおろするばかり。
「アンフィルター酒」 と言われてなんのことだかさっぱりわからない。 そのお客さんは冷蔵庫まで来てくれて、「これだよ」 と教えてくれました。
その後、そのお客さんは真如苑にご縁をいただいたので、お寺で会うようになりました。
その人と挨拶をするたびに、あの時の事を思い出して恥ずかしくなります。
レストランのオーナーは、まちがえると怒鳴ります。
大きな声なので、お客さんがこっちを見ます。 恥ずかしいやら情けないやら。
「そんなにおこらなくてもいいじゃない。 私だってまちがえたくてまちがえいるんじゃないのに」
ある日、仕事に行くのがいやで家に帰ろうとしたとき、真導院さまのことを思い出しました。
真導院さまは 「いじめられるから学校に行くのがいやだ」 と摂受心院さまに言うと、「お父さん(教主さま)にこれ以上心配かけてどうするんですか」 としかられ、真澄寺で祈られ、つぎの日から学校へ行ったときのことを。
自分の置かれている状況が、真導院さまとほんの少しでも重ねさせていただけたことがうれしくありがたく、涙が止まりませんでした。
それから私もがんばろうと思いました。
それからです。 怒られても怒鳴られても落ち込まなくなったのは。
そして自分のことを思ってくれているからしかってくれるんだ、ありがたいなあと思えるようになりました。
いままで何かあるたびに、いつも人のせいにしてきました。
苦しくなると 「私の人生こんなはずじゃなかった」 と夫を責めていました。
けれど 「こんなわがままで我の強い私と結婚してくれてありがとう」 と感謝にかわり、苦しみの涙から感謝の涙に変わったとき、10年間待ち続けていた歓喜へと引き上げていただきました。
もう私は双親さまから見離されてしまったんだと思っていたので、この時がいちばんうれしかったです。
そして翌年、大歓喜へと引き上げていただきました。
もし教えがなかったら、子供たちを連れて日本に帰ってしまい、また両親を心配させていたと思います。
双親さまは常住。 いつでもそばにいてくださる。 だから乗り越えられないことは何もない。
どんなことでも乗り越えられる。 このことを実感させていただけたことによって、アメリカでも生活していけると自信が湧いてきました。
つづいて夫も歓喜を相承させていただきました。
トラックのドライバーから日本領事館へ仕事の道をつけていただき、体力的にも金銭的にも楽になりました。
彼も 「これだけはしたくない仕事」 から始まりました。
苦手なことに取り組むと道が開けてくることも、わからせていただきました。
「教えがなかったら自分はどうなっていたかと思うと、おたすけせずにはいられない」 と彼は周りの人にお話をさせていただいています。
また彼は、奉仕委員として清掃ご奉仕をさせていただいています。
今は歓喜制度はなくなりましたが、今までどおり毎月させていただこうとわずかな金額ですが、歓喜をさせていただいています。
この三つの歩みがとても大切だということは、させていたけばいただくほど、そうだなあと思わせていただいています。
毎日が無我夢中で、教えと仕事と子育てをさせていただいて、気がついたらアメリカに来て2年がたっていました。
応現院落慶法要には立ち会うことができませんでしたが、海外教徒のための落慶法要に立ち合わせていただくことがきました。
2年ぶりの立川はあのときと何も変わらず、副門を入ると左手に笠法さま、右手に弁才天さまと清瀧大権現さま、地蔵菩薩さまに磨石でできたお不動さま、真澄寺、第1精舎、第2精舎、えとういん、そしてご霊廟のまえに立った瞬間、なんとも言えない空気に包まれ、双親さまと両童子さまがこちらをむいて座っていらっしゃるような気がしました。
双親さま両童子さまは、私のようなものでも見離したりはしない。 いつもみ心を注いでくださって、常住でおられると、ただただ感謝の気持ちでいっぱいでした。
昨年 USA Head Temple の落慶という大きな喜びをいただき、双親さま両童子さま・継主さまからみ心をたくさんいただいて、「よしこれからがんばろう」 としていた翌月、父が他界しました。
どうして今なのか。 なぜ突然? まだ69歳なのに。
いったい日本で何が起きていたのか、と母に聞きました。
すると、糖尿病と胃ガンでインシュリンを打たなければいけない状態で、胃に5センチの悪性の腫瘍が見つかったそうです。
血糖値と熱が落ち着いたら胃を全部取る、とドクターから言われたそうです。
社長といえども会社はわずかな人数で切り盛りしていたので、休むわけにはいきません。
まして私たち夫婦はアメリカに来てしまったので、きっと無理をしてしまったのだと思います。
どうしてもっと早く病院に行かなかったのだろう。 私がそばにいたら私が会社を手伝っていれば、こんなに早くいくことはなかったのに。
それよりもっと必死に教えを伝えればよかったと自分を責めました。
責めても父が帰ってくるわけでもないのですが、考えることはそればかりでした。
家族の死がこんなに辛いとは思いませんでした。
両童子さまを亡くされたとき、双親さまはどれほどお辛かったか。 摂受心院さまを亡くされたとき、教主さま継主さまはどれほど悲しかったか。
父の死を通して少しわからせていただくことができました。 尊い方々の命の土台の上で接心をいただき、教えを求めさせていただいている自分なんだと。
だから今なんだと、尊い方たちの祥月ご命日が続く6月なんだと。
聖地荘厳から心の荘厳へ、ご利益中心の自分からみ仏中心の自分へと少しでも喜んでいただけるよう夫婦両輪で一日でも早く真のおつかい人、土台とならせていただきます。