On Karma
by Andy Kahren



こんにちは、わたしは立川37部会小林経 アンディ・カーレン ともうします。 わたしがみ教えにご縁をいただいたのは1994年6月9日で、歩み始めて今年で約19年になります。 わたしは4人兄弟の一番上ですが、かつて弟がいました。 わたしが22歳のときに弟は20歳でしたが、そのとき交通事故が原因で命を落としました。 弟の事故死は因縁のためだった、といまは理解できますが、 当時のわたしには、なぜ彼が若くして命を落とさなければならないのか理解することができませんでした。 因縁は時を待ってはくれず、いつ表面化してもおかしくはないのです。 またわたしには2人の妹がおり、2人ともみ教えに繋がれていますが、残念なことに精進には踏み出せていない状況です。 わたしは2人の妹への教化をつづけることで、いつか一緒に精進できる日がくることを願っています。

自分の因縁についてお話させていただきたいとおもいます。 良い因縁にも悪い因縁にも巡り遇ってきました。 24歳のとき、わたしは 「パニック障害」 と診断をうけました。 この病気であることがわかるまで一年間、医師を何度と代え緊急外来にも何度もいきました。 最初のパニック発作のとき、急に気が遠くなり心臓の鼓動が非常に激しくなったことをおぼえています。 そのときは心臓発作かとおもいました。 わたしは15歳で父を心臓発作でなくしているので、そのときはわたしも父と同様にそれで死んでしまうものだとおもいました。 最初のパニック発作のときには、妻を残してこの世を去ることになってしまって申しわけないと彼女に詫びました。 自分はこれまでだ、と確信していました。 けれども、病院に着くなり具合が良くなっていたのです。 こんな状況をなんども重ねるうちに一年がたち、体重がどんどん減っていきました。 食べ物がのどを通らず、外出することもできずにいました。 いつなんどき、またパニック発作がおこるのではないかと怖かったからです。 電車にのるときは妻に手をにぎっていてもらいました。 ですから立川まで電車でいくのはわたしにとってとても大変なことでした。

「パニック障害」 と診断されたあと、不安症の薬を処方されました。 現実の社会で機能していくためには薬が必要でした。 薬の服用もその後遺症もいやでした。 経親さんは 「パニック障害とは心と精神面の病気なので、抗不安薬とは長いお付き合いになるだろう」 と説明してくれました。 病気と戦うのではなく、病気とうまく共存していくことだと諭され、また 「生涯この病気が治ることがないかもしれない」 ともいわれました。 当時、パニック障害とは認知度の低い病気で、医師のあいだでもあまりよく知られていませんでした。 わたしの経親さんはよく、パニック障害のことを新世代の病気と呼んでいました。 経親さんも同じ病気を抱えていらっしゃったので、ご自分の経験から病気について理解していることを話してくださいました。 この話をしていたとき、病気が治らないのなら、今後普通の生活を営むことは到底無理だと考えていたのを覚えています。 自分の力ではどうすることもできないものにコントロールされることにうんざりでした。 なんとかよくなりたい、以前のように普通の生活ができたら、と考えつづけました。

それからもわたしはしきりに自分を哀れみ、自分がなぜこんな病気にならなければならいのか、と考えていました。 これが自分の因縁だとわからなかったのです。 おばも長い闘病生活を送り、母も、弟の交通事故死のあと、精神疾患を患いました。 母がまるで別人のようになるのを目の当たりにしたのを覚えています。

わたしはかつて、東京という大都市の人ごみと雑踏のなかでの生活を心地よく思っていましたが、それが今度は非常に苦痛になりました。 満員電車の中でぎゅうぎゅう詰めにされているのがとても耐えられませんでした。 数年間、薬を服用しつづけ、抜苦代受のお力に護られながら、少しずつ通常の生活ができるようになりました。 当然、わたしの病気は結婚生活にも大きな影響をおよぼしました。 たくさんの出来事が悪い方へ向かい、そのすべてはわたしの責任でした。 わたしには人生を新しくやりなおすことが必要でした。 「自分の人生を変えられるかもしれない」 との希望をもって、アメリカにもどりたいと考えました。 義理の父のお陰で与えられた印刷会社での仕事をやめました。 彼はわたしにとてもよくしてくださり、わたしのわがままに耐えてくださいました。 妻とわたしがアメリカに行くと告げたとき、彼は大変ショックを受けていましたが、 そのときわたしは 「自分の人生を見出すためなのだから仕方がないことだ」 と自分の幸せを追うことのみを考えていました。

ベイエリアに戻ってきたあと、わたしは仕事を見つけるのに苦労しました。 あきらめて日本に帰国しようかとも思いましたが、妻は 「日本に帰ると面目がつぶれる」 といって、日本に帰ることに断固反対でした。 そのときはアメリカに戻ってまだ3ヶ月しかたっていませんでした。 容易な抜け道はないものかと模索していました。 このことに関して特別相談接心をいただくと、ベイエリアにとどまるようにとのご霊言。 わたしの進むべき道はここアメリカで、もはや日本ではありませんでした。

ついに良い仕事が見つかり、ベイエリアでの生活にも慣れ始めました。 そのころわたしはまだパニック発作のために薬を服用し、毎月医師の診察を受けていました。 当時のわたしたちの預かり経親さんは、妻とわたしがアメリカ生活に慣れ、教えを歩めるようにと、いつも励まし、助けてくださいました。 妻は預かり経親さんの言うことすべてに耳を傾けていましたが、わたしはその正反対のことをしていました。 妻が右に進めと言えば、わたしは左へ行くといった調子でした。 妻の言うことにも、預かり経親さんの言うことにも耳を貸しませんでした。 しかしある日、預かり経親さんが、会座に出ることを勧めてくださいました。 大乗を相承してから、まだ歓喜会座に一度も参座していなかったのです。 とのときは会座に立会わなくなってすでに12年が過ぎていました。 その理由は、あるとき親苑に帰苑し、歓喜会座の参座資格についてたずねたときに怒られたのを覚えていたからです。 当時、資格が不十分だと告げられたのです。 それ以来、プライドがじゃまをして、会座に参座することを拒みつづけてきました。 自分はプライドの高い、頑固な人間でした。 それでも預かり経親さんは辛抱強く歓喜会座に出ることを勧めてくださり、彼女と妻の助けもあり、参座資格を満たすことができました。 やっとのことで、会座に参座することに同意したわたしでした。 すると間もなく職場と家庭での取組みが始まりました。 ある晩、預かり経親さんに泣き泣き電話をしたこともありました。 もうこれ以上できない、と泣きつきました。 彼女はしばらくわたしの話をじっと聞いたあとで、 「わかりますよ。 でも、双親さま、両童子さまはあなたの苦しみをすべてお分かりで受け止めてくださっているでしょう。 それでじゅうぶんじゃないの?」 とおっしゃいました。 今日まで、あのとき感じたことを決して忘れることはありません。 あのとき、双親さまと両童子さまの常住を感じさせていただきました。 とてつもない大きな歓びを感じて、とつぜん、どんなことにも耐えて乗り越えられる勇猛心を感じました。 この出来事のすぐあとに歓喜の本会座に座り、歓喜を相承させていただきました。 大きな歓びと深い感謝を感じました。 再びおたすけに取組みはじめ、み教えのことを片っ端からだれにでも語りました。 もう語らずにいられませんでした。 このみ教えは真実の教えであり、真の救いをもたらしてくれるのだと皆に伝えなければならないと感じたからです。 わたしは使命感に燃え、いままでの自分とはすっかり別人のようになっていました。

持病はもう完治しており、不安なく正常に機能できるためにと12年間服用していた薬もやめることができました。薬から開放されたのです。 薬を服用しないで電車に乗ることも可能となり、人が集まる場所に身をおいてもパニック状態にならないようになりました。 薬よりももっと効力のあるものを手に入れたからです。 それは、ご讃題です: 南無真如一如大般涅槃経。 実際には、ご讃題はすでにいただいていたのです。 ただ、そのときまで気づかなかっただけです。 まわりのあらゆるものにたいする自分の態度が変わりました。 もう自分を哀れむことをやめ、み教えにもっと耳を傾け始めました。 智流学院にも入行し、教師にもならせていただきました。

歓喜相承後、直ちに大歓喜会座に参座し始めました。 わたしはやる気に満ちていました。 無くしてしまった12年を取り戻したかったのです。 しかし、そう簡単にはいかず、自分の精進のどこが間違っているのか分かりませんでした。 み教えに深く感謝していましたが、何かが足りなかったのです。 それでも、精進を重ね、所属を育てていました。 ある日、わたしの所属の一人が、日本へ行き、初めての大乗会座に参座することになりました。 妻に上求菩提したところ、わたしも所属を支えるために共に日本へ行き、滞在中にわたし自身も大歓喜の会座に参座させていただくようにと言われました。 わたしには反対する理由はありませんでした。 思い悩むことなく、日本へ向かいました。 そしてわたしの所属は大乗を相承、その知らせを聞いての喜びと、妻の祈りの支えのお陰で、次の日にわたし自身も大歓喜を相承させていただくことができました。  双親さま、両童子さま、護法善神さま、真如継主さま、あきらめることなく、常にわたしを支えて下さいまして、本当にありがとうございます。 もっと早く会座に取組まなかったことを懺悔いたします。 12年もの月日を、何もせず、自分の置かれた境涯に不平を言うばかりで無駄にしてしまいました。 自分を憐れむことを得意としていたのです。

わたしはまだまだ、プライドの高い人間ですが、日々、自らを少しでも浄めようと取組んでいます。 つい先日も、妻がわたしにどれだけ謙虚さに欠けているかということを気付かせてくれました。 わたしはうぬぼれが強く、世界中で自分が一番腕のいいドライバーだと思っています。 妻はわたしに、過去に起こしてきた事故や、交通違反の切符の数を想い出して見るようにと言いました。 「だれひとりとして足りている人間はいないし、完璧な運転技術を備えて生まれてくる人などいません。 あなたでさえ、良いドライバーになるまでに練習しなければならなかったでしょう」 と。 わたしは妻に感謝しています。 彼女の不断の支えとわたしに対する注意がなければ、今のわたしはありません。 みなさんのまえで二つのお誓いを申しあげさせていただきます。 ひとつは、長年いただいてきた抜苦代受のお力にお応えさせていただけるよう、霊能者になることです。 ふたつ目は、生涯かけて、妻と子供たちの面倒をみることです。 彼らなしには、わたしがここにこうしていることはなかったでしょう。

以下は、わたしがとても好きな苑歌です。

露が身は 眠りの中に はつるとも 利他につくさん 今のひと時

つねにあたたかくご指導くださる継主さま、そして、円満なる指導者になるべく精進するわたしの側にいつもいてくださる真如双親さま、両童子さまに感謝申しあげます。

また、わたしのプルーフを辛抱強く、お聞きくださったみなさま、わたしのプルーフを翻訳してくださった方々に深くお礼申しあげます。