Dancers
by Reiko Kawai

 私は、ナンティスタ経の川井玲子と申します。
経親さんからプルーフのお話をいただいた時、正直嫌だなと思いました。 私はダンサーなので、よく周りの人から人前に出ることが得意だと思われますが、本当はとても苦手です。 舞台に立つ上で緊張している姿を観客に見せることはできないので、緊張していないように見せることができるだけなのです。 しかし、かつては人前に出てお話をすることが苦手であった真如継主様が努力されたことを知り、そのため私もと思い、プルーフさせて頂くことに決めました。
私は6歳の頃からダンスを習い始めました。 きっかけは、11歳上の姉のバレエの発表会の写真を見て私もこれが着たいと母にお願いしたことでした。 それから私はどんどんダンスにのめり込みました。
私の家族は私を含め5人家族ですが、姉とは11歳、兄とは7歳離れていてとても可愛がってもらいました。 全てに恵まれていた私は基本的に好きな物は何でも買ってもらい、好きなことは何でもさせてもらっていました。 しかし、常に私の心は満たされることなく、死んでしまいたいとよく思っていました。 20歳あたりの時は30歳まで生きれば長生きだと本気で思っていました。
私は昔から学校が大嫌いで、既に幼稚園の時でさえ行くのを嫌がっていたことを今でも覚えています。 その学校嫌いは中学校で更に悪化しました。 私の学校では毎年担任が変わるのですが、中学卒業式の日、中1の時の担任が私の母に「卒業出来て本当に良かったですね」とまで言ったのです。
私の両親はしつけ、そして勉学においては非常に厳しかったです。 とにかく勉強ができなければ何をしても認められることはなかった私は反抗期を迎え、私の学校嫌いは余計にひどくなり、 学校には行かない、飲酒喫煙はもちろんのこと、ダンス仲間との夜遊びが始まりました。 そんな私が大学受験を控え進路を決めなければいけなくなった時、父親の願いが私を姉兄と同様に医者にさせたいということを初めて知りました。
「結局勉強がすべてか、親の思い通りになってたまるか」という私の反抗心が強まり、当時ダンスで仕事を貰い始めていた私は「大学には行かない」と言いました。 当然そんなことは許されるはずがなく、当時の私と両親との関係は最悪でした。 「どうしても大学に行けというのなら、アメリカに行く。そして私はアメリカでプロダンサーになる」 これにも父親は猛反対でした。
さんざん揉めた末、なんとか両親からの許可を得て、2005年に高校を卒業後、私はアメリカの大学に入学することになりました。 大学に入学し、専攻はダンスでした。 また、学校外では、オーデイションを経てダンスカンパニーに所属していました。 当時、1日約10時間は踊っていたと思います。 毎晩家に帰っては自炊をし、学校の宿題、健康管理、身の周りのことすべてを一人でこなさなければいけなかった若干19歳の私は毎日疲れきっていました。 今までの私は両親に守られていたんだと痛感した瞬間でした。
そんな生活を続ける中、2006年に足を怪我し、手術を受けなければもうこの先踊ることは不可能だという状態になりました。 私からダンスを取ったら自分ではなくなる。 私にとってダンスはそれほど大切なもので、踊れない人生なんて考えられませんでした。 しかしリスクを負う手術を受けるのは怖い。。。 一体どうしたら良いのだろうと私は悩んでいました。 そんな時、私の導き親さんと出会いました。 怪我の話を通し接心について聞いた私は、教えに結ばれました。
当時参加していた家庭集会でのみなさんは大歓喜以上の霊位の方がほとんどで、初心の私にはちんぷんかんぷんでした。 しかしその場に居ることが好きで、私はよく参加していました。 強く記憶に残っていることは、みんなが私を誉めてくれるということでした。 勉強でもダンスでも、色々なことができて当たり前という 環境下に育った私は、両親から誉められるということが殆どありませんでした。 なので、私のすること何でも誉めてくれるみんなに驚いたことを覚えています。
足の怪我について接心を頂くと、挫折のご先祖様が示されて、私がふと死んでしまいたいと思うことがよくあったのはその因縁と関係があるということが判明したのです。 お施餓鬼をお願いし無事に手術を受け終えた私はリハビリを重ね、再び踊ることができるようになりました。
帰苑を続けるなか、2009年、 母に病気が発覚し、余命半年と言われました。 そしてここで、家族に教えの話をするという課題が上がりました。 元々私の家族は宗教に対して否定的な考えを持っていて、特に父は宗教を毛嫌いしていたので、これは私にとって一大時でした。 父と兄が私の元を訪れた際、思い切ってこの精舎に連れてきました。
精舎に連れて来るまではすんなりといったのですが、精舎の中から聴こえる読経に血相を変えた父は、精舎に足を踏み入れることはありませんでした。 家に戻ってから、私はこんなに父が激怒しているところを見るのは初めてかもしれない。。。と思う程に怒鳴られました。 「宗教なんかに首を突っ込んで何をしてるんだ」と言われたのです。 父は完全に、私が騙されていると思っていたのです。 み教えについて話すにも初心なので自分自身も全然分かっていない。 だけどこの教えは決して変なものではないんだ。
しかし父には全然通用せず、何で私のしていることを認めてくれないのだろうという悲しい気持ちが溢れました。 真如苑に行くことを止め、導き親さんとの連絡も取らないようにと言われ父は日本へ帰国しました。 帰苑することを止めるつもりはさらさらなかった私は、悲しい気持ちを抱きながらも一如の道を開き、そこで「強制的に日本に連れて帰られなかった私は恵まれているんだ」と気付かせていただきました。
真如苑という単語さえ父の前で出すことが許されなかった私は、ある時実家に帰った際に、手紙を添えて母の枕元に一如の道を置いてきました。 アメリカに戻ってから届いた母からのメールには、「読みません。どうしてあなたは心配ばかりかけるのですか、アメリカに行かせるんじゃなかった」と書かれていました。 ここでも私は「何で理解してくれないんだ」という気持ちばかりが募り、自分を心配してくれている故だと感謝することはできていませんでした。
家族のお救けに玉砕した私は、家族には身で教えを語り、家族以外の方のお救けに力を注ごうと決意しました。 そうすると、どんどんお救けさせていただくことができまし た。 そうした中ある新人歌手の専属バックダンサーとして契約が決まり、ミュージックビデオやライブパフォーマンスにと多忙な中とても充実した生活を送っていましたが、一方で母の様態は悪くなっていくばかりでした。
ある時、母の様 態が急変したのですぐに帰国して欲しいとの連絡が入りました。 当時大学院在学中であった私は毎週水曜日の夜の授業の後、木曜日の飛行機で日本へ出発し、金曜日の夜に日本へ到着。 その後月曜日に日本を出発し火曜日の夕方にアメリカへ戻り、水曜日の授業に出るという生活を連続で何度か繰り返していました。 大学院を休学して母の側に居たいと母に伝えると、「学校はきちんと行きなさい。ダンスもあるでしょう。自分のやらなければいけないことを投げ出して私の傍に居ても嬉しくないよ」と言われました。
母がそう望むのであれば、母のために頑張らなければいけない。 その一心でひたすらに駆け抜けましたが大学院に仕事に、そして頻繁に様態を悪化させた母の元へ日本とアメリカへの往復にと私の身体は悲鳴をあげました。 自分の身の周りのことを始め、食事を作る体力・気力さえ残っていなかった私を支えてくれたのは導き親さんをはじめとする私の周りの方々でした。 「ご飯食べにおいで」双親様・両童子様・継主様さまが手を差し伸べてくださっていると思い、これが何よりも嬉しかったです。本当にこれは一生忘れません。 ボロボロになりながらも私を一生懸命に支えてくださった両童子様のお陰で、私は自分のできる精一杯のことをさせていただき、あとはお任せしようと思うことができました。
再び日本へ帰国して、とうとう母が他界する2日前、母と私と2人きりになった時に、母から「もう駄目だ」と言われました。 直感で今しかないと思った私は母に、「両童子様、双親様の元へ行く?」と言うと、意識を朦朧とさせている母は「うん」と力なくですが返答しました。 「お母さん、もう楽になろうね。お母さんの娘で良かった、産んでくれてありがとう」と今まで言うことのできなかった言葉を最後に伝えることができました。 すると母は「ありがとう、歳をとってから産んでごめんね」と言いました。 病気で辛いはずなのに、そんな時でも自分のことを想ってくれている母に私は涙を止めることができませんでした。 そんな私を見た母は「泣かないで、笑ってね」と言いました。
次の日、私たち家族は母の担当医に呼ばれ、「残り1週間というところでしょう。ご家族の方も心の準備をお願いします」と言われた数時間後、1年半の闘病生活の末に母は他界しました。 あまりの突然のことに泣き叫ぶ姉兄を横に、ひたすら心の中で両童子様と双親様を祈りました。
しかし、その後の私は完全に抜け殻でした。 悲しくてたまらず、母の後を追ってしまおうかと本気で思いました。 昔からよく死んでしまいたいと思っていた私にはもう限界だったのです。 教えが無ければ私は今この世に居ないと思います。 教えがあったから、私が母の後を追えば、残された父はどうなってしまうのだろう、そしてこれは母の望んでいることではない、となんとか思いとどまることができたのです。 でも苦しい。。。 こうなったらもう教えを頑張るしかないと覚悟を定めた直後、大乗を相承させていただきました。
その後ダンスで新たな機会に恵まれ、ダンサー事務所との契約が決まりました。 このためにアメリカに来た私への母からの最高のプレゼントだったと思います。
当時既に10人を超える所属をいただいていた私は、母のことで落ち込んでいる場合でなかったことも事実です。 「接心は自分を見透かされているようで怖い」 「あの人にこう言われたからお寺には行きたくない」 遠く離れた地で、自分の思ったことのないことで悩む所属に対し、一緒に帰苑してあげられないこと、すぐにでも会い に行ってあげられないことに申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。
そしてまた、母を失った悲しみに押し潰されそうになっていました。 双親様は両童子様 をご霊界に送られたんだ。。。 それに比べたら私の悲しみなんて。。。 私のこの気持ちを消して強くならなければいけないと思うようになっていました。 一如の道の(567ページ)真如教主様の「苦しかったら、悲しかったら 『南無 真如一如大般涅槃経』 と唱えなさい」の言葉を信じ、必死に祈りました。 そうすると、「悲しんで良いんだ、泣いて良いんだ、弱くても良いんだ」とすっと楽になり、それがお腹の底に落ちた時、「こんな私でも誰かのお役に立てるなら両童子様の手足になり、どこへでも行きますから使って下さい」というお誓いのもと今年5月に歓喜に引き上げていただきました。
2012年、 たくさんのお力を頂いています。 節分会の登壇から始まり、青年経親に挑戦してみない?という話が導き親さんから出ました。 個人行動が好きな私にとって青年部での集団活動が私には苦でたまらなく、いつも声をかけていただく青年部の方には申し訳ないと思いつつも、今まで青年部の活動に参加することは殆どありませんでした。 そうなるとこれからは青年部の活動に参加しなければいけないのか?面倒くさいから嫌だなと思いながら、「どうして私なんですか?」と導き親さんに問いました。 「私はずっと思ってたよ、あなたなら絶対できると思うの。あなたは周りを引っ張っていく人だと思う」 導き親さんにそう思ってもらえる自分にならせていただいたことに感謝、そして何より継主様に自分を使っていただこうと挑戦することを決めました。
しかし、申請するにあたりいくつか条件がありました。 その中の一つが、智流学院入学が決まっていることであり、私はまだ智流学院入門講義を受けている最中でした。 それでもとにかくやってみようと思い申請しました。 結果的にはやはりそれが原因で駄目でした。
初信で何も分からなかった時、ちらほらと会座・智流学院という言葉を耳にした際、導き親さんに「それって行った方がいいの?」と聞いたことがあります。 彼女は優しく「そうね、でも玲子ちゃんが行きたいと思った時に行ったら良いよ」と言ってくれました。 その頃の私は、じゃあ自分が行きたいと思った時でいいやと思っていました。 まさか数年後に自分が青年経親に挑戦する、そこに智流学院が引っかかるとは思ってもいなかったのです。 「残念だったね」と導き親さん、経親さん、そして応援してくれていた他の方々が涙を流した姿を見て、「これはまずい」と思いました。私自身の行いが足りていなかったせいで私を応援してくれている人を悲しませるわけにはいかない、所属には同じ失敗を絶対にさせてはいけないと思い、それから所属を引き連れて入門講義を終わらせました。
春から卒業論文に取りかかり始めた私に、今後、生活の基盤を日本に置くという話が出始めました。 卒業論文制作には1年間かかるし、この学校嫌いの私がやっと学業から解放されるのだからこれからは思う存分アメリカでダンスをしたいと思っていたので、とりあえず保留にしておきました。 しかし、どんどん日本での今後の話が浮上してくるのです。 最近もの凄いスピードで成長を遂げている日本のダンス界ですが、まだアメリカに比べると遅れているのが現状です。
そんな中新たなダンス界でのビジネスが今非常に盛んになっています。 ある知り合いからは「ダンスに関連するビジネスを始めるんだけど、そのためにあなたが必要なの」、また今日本で大活躍中のとあるボーカルダンスグループの養成所でインストラクターを務める恩師からは「主人の転勤の都合でやめなければいけなくなって、引き継いでくれる人を探しているの」等、様々な良い話が出てくるのです。
それと同時に、アメリカの事務所からも良い仕事が舞いこんでいた私の心は揺れ始めました。 今あるものを捨ててまた新しい環境に飛び込むことに腰が引けている自分がいたのです。
いよいよ卒業論文制作も終盤を迎え、そろそろ答えを出さなければいけないという時でも迷っていた私は思い切って父に相談しました。 「今日本に帰ったら強い意志を持ってアメリカに来た自分から逃げてる気がする」そう言った私に、父は 「それは逃げじゃない。ダンスは日本で続けたら良い。今まで一人で良く頑張った、もう帰っておいで」と言ってくれました。 滅多に褒められることのない父からのその言葉の中に、これは継主様のお言葉だと感じました。
私はただ涙するばかりでした。 そして「日本で新たな道が用意されているようですよ」とのご霊言をいただき、新たな出発に踏み切ることができました。
真如継主様からご指導いただく中に必ず霊能を相承し、一日でも早く英語で接心のできる青年霊能者、経親、そして教師としてお仕えさせていただくことをここにお誓いします。
そして今日、サンフランシ スコでの精進を最後とする日にプルーフをさせていただける機会を与えてくださった真如双親様、両童子様、真如継主様、護法善神様、ご先祖様、家族、周りの 方々、そしてこんな私に一生懸命に着いてきてくれる所属に感謝します。
本日は有難うございました。